昭和45年8月21日 夜の御理解                   明渡 孝




 昨日のご大祭の親教会のお礼を、総代さん達とご一緒に出ることになっておりました。ちょうど(?)の小野先生がお参りさしてみえましたから、あちらの車で送ってもらったんです。まああの中で、熊谷さんもご一緒でしたが、まあ笑ったことですけれど。
 もうその、今ご普請があっております。これはもうおそらく、合楽教会で一番優雅な生活ができるだろう、ああいうお家に住まわせてもらうなら、というように、先日秋永さんと高橋さんが二人、この御神前を見てくれというので、御神前の模様をですね、見に行った時に、そらなかなか坪三十万からの家ですね、そら立派なもんですね。
 それを自動車の中で言ったのがその、もう借金負うてから造ったところで、これはあの、まあいろいろ家内と心配の話をしよりますから、一番はじめに神様のご神意を頂いて、神様のお許しを頂いて、みてごらん、なるほどそしたら違うてるかもしれない。それはもう借金がね、いわゆる金の入ってくる具合というものが、何とも言えん神ながらなことで入ってきよるじゃないの。それをあんたげん心配することない、というて私話したことですけど。
 まあ善導寺に行くまでにですね、今度の台風のことでもうほんとに、もう不思議なことじゃあるですものね、あれだけの大木がみんな倒れてしまったのに、家には全然倒れかかってないというのですよ。
 駐車あの、何と言うですかね、自動車の小屋でもそうです、ほんとにこう、自動車を抜くようにしてから飛んでおったとか、とにかく、もうほんとにもう神様の働きには、もう恐れ入ってしまうというて、そこにお礼でもひとつさしてもらわにゃおられんようなものを感ずるんですけどね、私どもは。
 それをもういっちょんそういうもの(関係ないです?)、はあ、おかげ頂きまして、こういうこといや多いけれどもですね、ですから、信心て私は思います、もうほんとにおかげを受けておるということの、その実感がね、とにかく、やはり百の人もありゃ、千も万もの人もある。それがお参りにも現われてくる、または奉仕、お供えにも現われてくる。
 それがね、次の信心の成長の根肥やしでもあり、力になるものであって、ただおかげを頂いて、そういうおかげを頂きよるだけで、まあおかげと言や良いけれども、おかげの実感というものが非常に、まあ薄いですね。ああいうところがまあ、場合では学が身を食うとおっしゃるようなところは、あのところじゃないかと思うですね。
 いわば、最高学報を出て、最高の学問をいわば身に付けておりますから、その神様のほんとうの、このようなご守護の中に、このご普請ができておるんだ。こういうご修行の中に、あの台風の中にこんなおかげを受けておるんだという実感が、誰よりもやはり薄い。というて、毎日ならもう、ここ二十何年間お日参りを続けておるわけですけどね。なんとはなしに。
 けれども、その自動車の中で、まあほんとに今あの人の言われることは、(無邪気?)ですから、どうしたやつじゃろうかとは思わんけれどもですね、いわゆる実感、感じられるんですよ、それがね。
 私どもが信心さして頂いて、おかげを受けておる。おかげだなぁと思うその実感が、私は信心の上に現されて、それがほんとうな血に肉になったということになるのじゃないかというふうに、今日思わしてもらいましたね。どうぞ。